あお’SROOM

生きていくって大変だよね。日常の中から色んなことに気づいてちょっとずつ成長できたらいいな。
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思い込もうとすることと知ること

一見自分に良くないと思えるような出来事などが実は自分自身の
ステップアップに繋がるものだと私は良く書いているけど、
それは決して、『ポジティブ(前向き)に考えたい・考えよう』と
思っているわけではありません。

それが繋がるということを、『知っている』のです。

そうではないけどそうありたいと思う心がある時に
無理にそう思おうとしても無理が出てきてしまう。
私は自分の心に嘘はつけない。
だからどうしても知りたかった。

前向きな生き方が出来るようになるのにはどうしたらいいのか。

それはどんなことでも良い方へとこじつけるこということじゃない。
心が頷いていないのに、こじつけたってどこかで歪みが生じる。
自分の心を自分自身で誤魔化しているのだから。
誤魔化しは一時的なものに過ぎません。
サビの上にペンキを塗るようなもの。
時が経てばまたサビは浮き出てしまうんだよね。

浮き出ないようにするためには、サビを落とす作業から始める。
綺麗に落として、サビ止めをしてそしてペンキを塗る。
今はサビ止め入りのペンキも売って・・・あ゛?w
や、そんなことが言いたいわけじゃなくww

まずはありのままを見えなくしてしまっている心のサビを落とすこと。

知りたいと願うことを決して諦めないこと。

その願いを叶えることの出来る自分を信じること。

その先に答えは待っています^^
今か今かと心の奥底で出番を待ちわびながら。

答えを見つけ出した時、それは『前向きな考え方』ではなく
それが『当たり前のこと』になります。

知る=気づくということは、新しいものを創り出すことではなく
ずっとここにあるものを見つけ出すということです。
そしてそれは誰の心の中にも平等にあるものです。

思い込もうと頑張ることと、知ることは全く違うこと。
一時的な誤魔化しをやめて、心から頷くことが出来る答えを探してみようよ^^
決して簡単には見つからないし、見つけ出すためには
かなり辛い想いもするかも知れない。

だけど、『知る』ことは自分の心の解放に繋がることです。
私もまだまだ知らずにいることが山ほどある。
だから一緒に頑張ろう^^

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【 2007/11/12 (Mon) 】 似て異なるもの | TB(0) | CM(16)

履き違えやすいもの

【自由と楽】

自由になるということと、目の前の楽を求めるということは
まったく別のことだと思います。
自由というものは、本来どこにあるものなのでしょうか。
会社や学校で仕事や授業という時間に拘束される。
あるいは、病によって病院やベッドに拘束される。
それは、自由がないということなのかな。

何にも束縛されないものはないのかな?
私はあると思っています。


【自分を大切にするということと保身】

履き違えやすいものに、自分を大切にするということと
保身するということがあると思います。
自分を大切にするということは、どういうことでしょうか?
これは、自分以外の誰かやものを大切にするということにも
同じことが言えると思います。


【自分を低く見せることと謙虚ということ】

謙虚さを持つということはとても大事なことだと思います。
この『謙虚』という言葉の意味を履き違えている人がいます。
『低姿勢=謙虚』ではないと私は思います。
自らをへりくだって見せることを謙虚と思っている人が
いるようです。


【律することと縛ること】

心を律するということは、心を縛ることではありません。
心を縛ってしまったら、心は小さくなってしまう。
心を律するということは、心を広げるためにするものです。
広げるための、確かな根を張るためにするものなのです。

律するということは、抑えこむことではありません。
心は抑えこんではいけないのです。
抑えこむと、いつか爆発します。
心の病気や体の病気を引き起こす原因ともなります。
心を律するということはどういうことでしょうか?


【自分を持つということと囚われ】

人はすぐに何かに囚われてしまいます。
目指すものが正しいことであっても、それに囚われてしまっては
意味がないのだと思います。
囚われというのは、心を狭くしてしまう。
見えるものも、見えなくしてしまうからです。

『正しく生きる』ということにすらも、囚われてはいけないのだと思います。
そこに固執しすぎてしまうと、回りとの摩擦が生じてしまう。
理(ことわり)を以って目指すものは、『調和』
自分の想いを押し付けることは良いことではないと思うな。
例え、それが正しいことであったとしてもです。

自分をしっかりと持つということは大切なこと。
でも、そこにしがみつき囚われてしまっては、自己を広げることを
阻むことになると私は思います。
バランスが大切ですよね^^
しっかりした自己を持つということはどういうことでしょうか?


と・・・久々の問いかけです^^
難しく考えずに、心で感じ取ってみてください。
私自身もこれらのことは、まだまだ掘り下げてゆきたいと
思っています。第二弾もそのうちに!?(爆)

この暑いのに難しいこと言うなって?w
まぁまぁ・・・w 気楽にd(゚ー゚*)ネッ!w

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【 2007/08/20 (Mon) 】 似て異なるもの | TB(0) | CM(12)

理想と幻想

今日もママチャリ出勤してきましたよーーーっ!
イエ━━゚+。v(。・ω・。)v゚+。━━イ♪
今日は気温も上がり、行き帰り9℃くらいありました☆
でも、明日は弱い雨という予報・・・。
夕方には止むみたいだから、大丈夫だろう♪

タイヤに空気も入れたし、サドルもちょっと高くしたので
今日は結構快適に乗ることができました^^
10分くらいで着いちゃった。
こんなに近いのに、ぐだぐだ泣き言言ってたら恥ずかしいね^^;
みなさんから頂いたエールの言葉もとっても嬉しかった。
ほんと、ありがとうです(*_ _)ペコリ。
あお!頑張りますっ!(`・ω・´)

よく、人を羨んだり妬んだりする人がいるよね。
私自身は、人を羨ましいとか妬ましいとか思ったことが
殆どない。どんなに欠点だらけだって、私は私だもの。
こういう人になりたいとか、そういう憧れを持つことは
悪いことではないと思うけど、成長した自分というものは
今の自分の延長線上にいるんだよね。
決して他のところにはないのだということを知る必要があるんじゃないかな。
今の自分をおざなりにして、こうなりたい、こうありたいと思っても
それは理想ではなく、幻想でしかありません。

真似と見習うことは違います。
真似には自分がありません。
見習うということは、感じたものを自分の心において
自分のものにしていくということです。
真似すること自体が悪いとは言いません。
ただ、そこで終わってしまっては意味がないと思うのです。
いくら真似をしても、その人自身になることは有り得ない。
見習うということは、自分自身を受け止め成長させたいという
願いが感じられます。
でも、真似は自分自身を否定している心がある場合が多い。

自分を否定していては、なりたい自分になることは出来ないよ。
自分を受け入れて初めて、なりたい自分になれるんだ。
誰かと自分を比較して悲観する必要はないんだよ。
どんなに比較して嘆いたって、自分は自分でしかないのです。
だったらやるべき事はひとつ!
『自分らしく生きよう』

そしてそのために今ここにいるんだよ。
あなたがあなたであるから今ここにいるんだ。
必要な存在だから今ここにいるんだよ。
あなたがあなたでいることが大切なんだよ。
幻想から抜け出して、心の願いに耳を傾けよう♪
願いが聴こえたらそれを深めてゆこう。
そこにあなたがここに存在している本当の理由を
見つけることができるでしょう。

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【 2007/04/24 (Tue) 】 似て異なるもの | TB(0) | CM(18)

知識と智慧

今までも何度も書いてきているように、何を見ても何を知っても
『鵜呑みにはしない』ことが、とても大切だと思っています。
自分の外から入ってきたものは、単なる『知識』にしか過ぎず
自らの内より湧き出でる『智慧』とは全く別物であると思うからです。

本当に・・・人の心の奥底に秘めたる内なる智慧は、
図り知ることの出来ない深く深く広く広く無限の広がりと深まりを
持っているものだと感じます。
知ろうとすればするほど、知れば知るほど、その広さと深さを
痛感します。あぁ・・・果てがないよ・・・^^; ってw

以前にも書きましたが、魂としての成長が進んでいる人ほど
困難な人生を選ぶことが多いと言われています。
何故そうなるの?何故そうするの?何故こうなの?・・・。
そういう心の叫びにも思える疑問を感じること。
私はそれこそが、内在する智慧を呼び起こす元となるのだと思います。

そういう疑問を諦めることなく持ち続けていると、
いつの日か、ふと気づく時が来ます。
それは、日々の出来事や人との出会いの中で起こります。
知識と智慧が繋がる瞬間です。過去の様々な経験やそこでの想いなどが
今ここに存在していることの意味と繋がる瞬間でもあります。
これは面白いくらい、絶妙なタイミングでやってきます。
『今、この時にこれかぁ・・・。』と思わず納得してしまう。
『その時』が来るまでじっと待機していたんだなぁって感じかなw

ですから、気づくことがないと嘆く必要はないと思います。
その気づきは例えれば、どうしても思い出せそうで思い出せなかったものが
ふと思い出せた時の感覚に似ているかも知れません。
汚れていた窓ガラスを磨いた後、改めて外の景色を眺めた時に
感じるものにも似ているかも知れません。
そしてこの『気づき』は、同じ物事に対しても何度も何度も
繰り返し訪れます。
その度、少しずつ少しずつ気づきが深まってゆきます。

大切なのは、『何故』を求めること。諦めないこと。焦らないこと。
いつか気づく時が来ることを信じること。
自分に対しても、自分以外の人に対しても、世の中に対しても、
1つの気づきがあっても、そこで歩みを止めるのではなく
更にそれを深めてゆくこと。

知識を求めることは悪いことではありません。
でも、そのまま鵜呑みにしたのでは広がることはありません。
知識は自らの内なる智慧と繋がらなくては、意味を成さないと思います。
頭の中だけで考えていても繋がることはありません。
動かずして繋がることはないのではないかと感じています。
日々、何気なく過ごしている日常の中にこそ、大切なものはある。

『答えはあなたのすぐ傍にあるのよ』
こう言われたことの真意がようやく見えてきたなぁと
この頃思えるようになってとても嬉しい私であります☆
もっともっと気づけるよう頑張ろうーーーっと♪

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【 2007/03/30 (Fri) 】 似て異なるもの | TB(0) | CM(24)

言いたい時と言うべき時

『自分が言いたい時が、言うべき時ではない』
とは、私の尊敬する高橋佳子さんの言葉ですが、
その言葉を目にした時、Σ(・o・;) ハッ!と思うところがあって、
以来、とても大切にしていることの一つです。

言ってあげたほうが本人のためになるということは多くあります。
私は、陰でこそこそ言いながらも本人の前では、そ知らぬ顔を
しているということが大嫌いww
「だって、言ったら可哀想じゃん。」と、その人達は言います。
そうかな?実は自分が可愛いだけじゃないのかな?
言わないで置くことが、その人の為になることなのかな?
言われて初めて気づいて、反省し、次に繋げることができることも
多いんじゃないのかな?

過去記事においても、そういった経験を書いたものがあります。
その記事はコチラ⇒ 『優しさとは?』

時には厳しいことを言うのも、思いやりだと私は思います。
それは、決して非難ではなく、中傷でもなく、上に立って
自分の考えを押し付けることでもなく、本当にその人を想い、
その人にかける言葉としてです。
その時に思うのが、『自分が言いたい時が、言うべき時ではない』
という言葉です。

誰かの言動に腹を立て、怒り任せにそれを口にする。
例え、誰がどう見ても相手が悪かったとしても、
怒りに任せて口にした言葉では、相手のことをちゃんと考えてない。
自分の怒りを収めるために口にしただけになってしまう。

半端じゃないくらい短気な私が、売り言葉に買い言葉を
(冗談の場合は別としてw)ほとんど言わなくなったのは、
『自分が言いたい時が・・・』の言葉に出会ってからです。
本当に相手のことを想うなら、時期を待つこともまた必要。
もちろん、その場で言ったほうがいい時もあると思います。
でも、怒りや感情に任せて言うのではなく、心静かに
相手を想うことを根底において、話をすることが大切だと思う。

時を見て、言葉を尽くしても返ってマイナスを生んでしまう時もあります。
相手が心を閉ざしていたり、意固地になってしまっていたり、
そんな状態の時は、返って反発を生みかねない。
そういう時は、一歩引いて心を尽くすことも大切だと思う。
時には、『寡黙』や『沈黙』も必要。
『寡黙』や『沈黙』が、何よりも多くを語っていることもあるんだよね。

寡黙な中にも、厳しい言葉や態度の中にも、溢れる愛を持ち、
溢れる愛を感じることのできる受け皿を持ちたいものです^^

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【 2007/03/08 (Thu) 】 似て異なるもの | TB(0) | CM(16)


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